『日本映画のふるさと ミナミ 』 2.日本初の映画興行地
荒木和一がアメリカから輸入した
エジソン商会のヴァイタスコープに続き、
日本に導入された映写機がフランス・リヨンの
リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフでした。
こちらは手動式で、重さが5キロと軽量。
しかも映写だけでなく、
撮影もできる画期的なものでした。
当時、アメリカとフランスとの間で熾烈な
映画バトルが繰り広げられていたのです。
明治30(1897)年1月9日、商用で渡仏していた
京都の染料店経営、稲畑勝太郎
(稲畑産業の創業者、大阪商工会議所第10代会頭)が
そのシネマトグラフを携えて帰国しました。
稲畑はリヨンで再会した留学時代の旧友
オーギュスト・リュミエール(兄)を介して、
シネマトグラフの興行権を得ていたのです。
2月初旬、京都電灯会社の中庭
(京都市中京区木屋町通り蛸薬師上る、
現在の旧立誠小学校)で試写が行われました。
これが日本での映画初上映とされてきましたが、
実はヴァイタスコープの方が1か月以上、
早かったことがわかりました。
シネマトグラフの一般公開は2月15日から2週間、
南地演舞場で催されました。
この演舞場は映画初上映地の福岡鉄工所から
北へ約200メートル、髙島屋の真向かいにありました。
現在、「TOHOシネマズなんば」が入る東宝南街ビルが建っています。
「自動写真会」と銘打たれ、連日、
押すな押すなの大盛況でした。
入場料は一般席が10銭(現在の価格で約2,000円)。
これが日本初の映画興行。
昭和28(1953)年、東宝が南街会館
(東宝南街ビルの前身)を建造した際、
小林一三社長がそのことを知り、
顕彰プレートを作りました。
今でも東宝南街ビルの1階エレベーター乗り場の
壁にはめ込まれています。
先を越された荒木はその1週間後の2月22日~24日、
西区の新町演舞場でヴァイタスコープを
一般公開しました。こちらの入場料は5銭。
わずか1.4キロしか離れていない2つの演舞場で
シネマトグラフ、ヴァイタスコープという
2つの「動く写真」が一時期とはいえ、
同時に披露されていたのが非常に興味深いです。
このように映画の初上映地も初興行地もともに難波。日本の映画はミナミから発信されていったのです。
- 【プロフィール】
- 武部好伸 (タケベヨシノブ)
- エッセイスト。1954年 大阪市生まれ。大阪大学文学部美学科卒業。元読売新聞大阪本社記者。
映画、ケルト文化、洋酒をテーマに執筆活動に励む。日本経済新聞、その他多くのメディアに映画評、映画エッセーを寄稿。 - 日本ペンクラブ会員、関西大学社会学部非常勤講師。
著書に『大阪「映画」事始め』(彩流社)、『ぜんぶ大阪の映画やねん』(平凡社)、『ウイスキーアンド シネマ 琥珀色の名脇役たち』(淡交社)、『ウイスキー アンド シネマ 2 心も酔わせる名優たち』(同)、「ケルト」紀行シリーズ全10巻(彩流社)など多数。 - 武部好伸公式Blog/酒と映画と旅の日々
- http://www.takebeyoshinobu.com